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「脳死」について考える

今回の「臓器移植法」の改正については、様々な波紋が広がっている。

本件の審議中に「居眠り」「おしゃべり」「立ち歩き」をしていた国会議員については「お前ら、落ち着きのない小学生か!」と一言だけツッコミを入れて、真剣に「脳死」について考えることにする。

以前であれば「脳死」を「人の死」として定義しておいた方が、「移植手術」によって多くの命が救われるのではないか、と考えていたが、今回のように臓器を提供する側(とくに今回は子どもたち)にスポットをあてて考えると、話はそう単純にはいかない。

やはり、物事を考えるときは、いろんな側面から考えなければならない。

そこで、この問題について自分なりに考えてみた。

とは言っても、私もこの問題について特に詳しいわけではないので、認識が誤っていた場合はご指摘ください。

「脳死」状態とは、自ら呼吸ができないので「延命措置」をして「生きている」状態のこと。つまり、人口呼吸器などがなければ、そのまま「死」んでしまうわけである。

臓器移植を待つ患者も、他人の臓器をもらうことによって「延命措置」を行うのである・・・つまり、両者とも自然な形で「生きる」わけではない。

もし、「脳移植」が可能なのであれば、逆の立場になることもある・・・つまり、「脳死」状態の人に、「人工心臓」で延命措置をされている人に、「あなたは、心臓が死んでいるので、死んだも同然です。脳死の人に脳を提供してください。そうすれば脳死の患者を救えます」となることもありうるのだ。

要は「脳」をとるか?「心臓」をとるか?の違いなのではないか?

どちらも「人間」の機能であるのだが、現代ではやはり「脳」が優先されてしまう。そういうわけで今回のA案が衆議院で可決された・・・きっとそういうことである。

もし自分の「脳」が死んでしまい「生きている実感」がなくなるのであれば、「植物状態」のまま生きていたいとは思わないが、家族が「脳死」状態になったら間違いなく延命措置を選ぶ・・・一人の人間の中で、これだけ判断がぶれてしまう。

だからこそ難しい問題なのである。

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